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31st プロジェクト

動画で語る!! 名将・『西岡義夫』記念館。
みんなで『西岡イズム』を語り継ぐプロジェクト

~教育者としての野球道を追求。滋賀県湖北地方から全国へ。~

西岡義夫Youtubeチャンネル
わが人生。仲間が主役。仲間が宝。最新動画はコチラ

名将『西岡義夫』記念館

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心友、川戸康嗣大兄の上記テーマの企画のオファーを
2024年4月上旬に受け、my historyがスタートしました。
以心伝心といいますか、3~4年間途絶えていた交流が、同じよう意図を持っていたのです。
中島みゆきの『糸』 縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に出逢えることを 人は幸せと呼びます。
不思議な絆で結ばれていた川戸社長との何度かの再会が訪れ、
今 ここに 壮大なprojectが始まりました。
テーマは私自身のことの様ですが、私と関わり、育てて下さった方々が主役の物語で、
その方々の活躍や言動をメインに考えて、
ドキュメンタリー風に制作して頂く様にお願いしました。
西岡義夫

西岡義夫のライフヒストリー

少~学生時代

中学時代まで
4人兄弟の末っ子として、大阪市東淀川区に生まれました。小学2年生の時、戦争の疎開先として、父親の生まれ故郷である滋賀県長浜市に引越しました。この頃より、野球大好き人間でした。今と違い当時は屋外での遊びしかありませんでした。たまたま野球好きな子どもたちが集まり、布製のボールやグローブでキャッチボールをしたり、村内の字(あざ)別対抗の野球大会で、大人のチームに交じって野球を楽しんだりしていました。

高校時代
地元の高校、滋賀県立虎姫高校に入学しました。野球部があれば入りたかったのですが、同好会しかなかったためテニス部に入部しました。

大学時代
国立滋賀大学学芸学部(現教育学部)に進学し、準硬式野球部に入部しました。監督やコーチ・先輩に率先して指導を受けるという訳ではなく、選手同士が教え合い、そして認め合いながら、自ら工夫していくという形で切磋琢磨していきました。その頃、ベストセラーの『ドジャースの戦法』という本に強い衝撃を受けました。読売巨人軍の9連覇時代の川上監督にも影響を与えた本です。卒業論文にも参考させて頂き、現在も「座右の書」の一冊となっています。この頃は特に厳しい練習を通して強いチームを作ろう、一目置かれる選手になろうと努力していた訳ではなく、あくまで同好会の延長の気持ちで4年間を過ごしていました。

員時代

大学を卒業後、浅井東小学校に3年間、そして湖北中学校に2年間、教諭として勤務しました。滋賀県立伊香高校に教諭として15年間勤務、その後、母校の滋賀県立虎姫高校に同じく教諭として12年間勤務しました。 更に、滋賀県立長浜商工高校に教諭として5年間勤務、教員としては最後の勤務地となる滋賀県立長浜北高校では、定年退職後に野球部監督を兼任しながら、教諭としても4年間勤務しました。

中学・高校教員時代は、英語教員も担当しましたが、主に体育教員として勤務させて頂きました。生徒が少しでも楽しく学べるように、教育カリキュラムに従う範囲で、自分なりに工夫を凝らして楽しみながら教員生活を送っていました。
また、体育の授業を通して、最低限度の「忍耐」を身に付けられるように指導していました。野球部監督の時とは違い、厳しく教える必要はなかったので、体を動かして楽しくスポーツを行うという指導方針の下、「西岡先生の体育の授業は楽しい」と生徒からの評判も良かったように思います。

野球部指導者として

校野球指導者時代

①滋賀県立伊香高校監督時代 1964(S39)年~1979(S54)年
小学校教諭と中学校教諭を5年経た後、体育教師兼野球部監督として、滋賀県立伊香高校に着任しました。この時が、私の野球人生の本格的な始まりでした。
「高校野球をするからには、甲子園を目指そう」という教えに始まり、全体練習だけではなく、見えない所でどれだけ練習を積み上げていくのかが大事であることも教え続けました。「高校野球は教育の一環」という信念のもと、できるだけ全選手の出場機会を増やすことに努めました。
私が伊香高校に赴任し野球部監督に就任したことにより、大学の後輩である地元中学の野球部監督が西岡監督の下で野球をすることを進めてくれました。そのお陰で、これまで以上に優秀な選手が集まり始めました。15年間の監督時代は「滋賀県優勝12回、準優勝6回、甲子園出場3回」という実績を残すことができました。当時、伝統校で甲子園常連校であった比叡山高校と並び、滋賀県下では2強と称えられる程に成長しました。
伊香高校、2年目の学年(主将・藤田勘蔵君)は秋、3年の春・夏と県内最強のチームに成長してくれました。秋は奈良の御所工に1-0で惜敗、甲子園まではあと一歩でした。春は京都平安に2-0、夏も平安に5-0と、京都の壁は厚かった。

伊香高校指導者時代の『西岡イズム』の
詰まった西岡ノート15年分
(1964(S39)年~1979(S54)年迄)

5年目(主将・大谷史郎君)の時は、全国高校野球選手権が第50回の記念大会のため、県一校甲子園出場の年に当たり、決勝戦で長浜北に10-0で勝利して、初の甲子園出場となりました。朝日新聞のヘリコプターからグランドに『伊香 甲子園初出場』の号外が舞い下りて、木之本町は沸き返りました。88歳(2024年現在)になって思い起こせば、私自身の野球人生の始まりの出来事だったのかもしれません。
初めて高校野球の監督を務めさせて頂いた伊香高校時代は、その厳しい指導で「鬼の西岡」と呼ばれることもありましたが、満足のいく実績を残すことができ、良い監督人生をスタートすることができました。

1977.2.27 中日新聞 滋賀版『近江の人』(抜粋)
3月27日から甲子園球場で開かれる第49回センバツ高校野球大会に初出場する伊香郡木之本町県立伊香高校野球部のナインは、同校グランドが雪に埋まっていて、屋外での練習はできない。同校トレーニングセンターや講堂で、天井からつるした高さ15mのロープを一気によじ登るなど、西岡監督の独特の練習法で、基礎体力を養い、グランドに出る日に備えている。
2月の大雪で、同校は2日臨時休校になった。だが、監督、部員は吹雪をついて登校、練習をした。365日が練習であり、教育であるとしている。『野球はレギュラーだけでやるのではない。部員全員でやるのだ』の方針が貫かれている。球拾いも1年生の仕事ではない、全員がやる。部員は日記を書くことを義務づけられている。監督は丁寧に見て、疑問に答え、励まし、注意を書き入れる。指導に愛情がにじむ。成績が芳しくないと、他校へ出かける練習試合から外す。
同校OBの1人は『練習時は鬼監督だが、練習から離れると心が温かく、何でも相談にのってくれる。慈父、慈兄である』という。部員の父兄は『レギュラーにならなくてもよい、部に入ることで安心してお任せできる』、ファンの一人は『部員は校外に出ても礼儀正しい、立派だ』とそれぞれいう。
夫人の淳子さん(36)は監督と結婚前、県立長浜北高校の保健体育科の教諭だった。土、日曜もない監督を励まし、野球の良き相談相手である。選抜出場が決まって、マスコミ関係から実家へ夜間電話がかかってきたり、訪問を受ける。ある時は風邪気味だったが嫌な顔を見せず、明るく対応している。内助の功は大きい。監督15年、毎年、県下最高の部員を擁し、トップクラスを維持、夏の全国大会2回、そうして今度の選抜大会出場 ― これらの実績は、生まれるべくして生まれたものといえる。

2002.7.4 朝日新聞 滋賀版(抜粋)
『全てが野球優先だった』と、長浜北の西岡義夫監督(65)は振り返る。
1年間、ほとんど休みがない。自分の子の世話、大切な地域のつきあいも妻に任せきり。3人の子は正月前にスキーに出かける年1回の家族旅行を楽しみにしていた。妻の淳子さん(60)には、25年たっても忘れられない思い出がある。1977年3月、西岡監督は伊香を率いて選抜大会に出場した。初戦が教え子の結婚式の日と重なった。当日、京都市内の式場には淳子さんだけで向かった。頼まれていた仲人は外されたと思っていたが、教え子の恩師の大学教授と仮の夫婦を演じることに。最初は戸惑ったが、『式の途中からは試合結果が気になってしようがなかった』と言う。
西岡監督は虎姫高校野球部出身。だが、在籍したのは1年生の春だけだ。部員不足などで野球部はなくなった。高校時代に野球ができなかった無念さが、甲子園への憧れを強くした。滋賀大で4年間、野球を続けた。卒業後、県内の小中学校教諭をへて、1964年に伊香の監督に。『野球部を強くしてくれ』と、一色校長と坂口教頭に言われた。当時27歳、『甲子園に行くまで結婚せんぞ』と意気込んで、監督を引き受けた。

・伊香高校野球部監督時代成績

最高成績:甲子園出場3回 滋賀県優勝12回 準優勝6回 ベスト④5回 ベスト⑧6回

伊香高校監督成績 1964年~1979年(15年間)

[ 近畿大会、全国大会等 ]

②滋賀県立虎姫高校監督時代 1979(S54)年~1991(H3)年
虎高の監督に就任早々、水森校長に伊香とは本校は違って進学にも重点を置いているので、『野球一辺倒という訳にはいかないので、その点も配慮して下さいよ』と、最初に言われたことが記憶に残っています。決して伊香高校時代も甲子園目指して弛まぬ努力は自分自身も部員たちの持ち続けていたとは思います。今までもこれから先も、高校野球に携わる人たちは皆んな『甲子園』が目標だと思います。その情熱が大きいか小さいかの違いはあると思いますが…
部員たちに言いました! “高校野球は16歳~18歳の青春のど真ん中の3年間しかできないよ”
勉強・勉学は30歳でも40歳でも、努力すれば一流の国立大へ入学もできます。(一浪しても二浪しても、野球にも全力を傾注しよう)自分の基本的な考えは、短時間で効率よくと考えていましたので、休日でも試合のない日は半日で終了していました。
伊香高校時代は、全て国鉄(現JR)の団体券で対外試合に出かけていましたが、虎姫高校時代は県内・県外を問わず、全て『魚作楼』の大型バス・マイクロバスで、その後、5年目(1982年)の主将だった設楽昌克君(現『おりひめ』社長)のマイクロバスにて、試合の移動は行いました。大型免許は1963年(S.38)に、守山の免許センターで一発合格できました。隣の受験生の方が「5回目でやっと合格したのに~良く合格したね!」と驚いていました。長浜自動車学校で1時間練習しただけでした。(これもラッキーを持っている男かな?)その免許証のお陰で、長浜商工、長浜北、湖北ボーイズ、彦根総合の76歳まで、マイクロバス運転で交通費や時間の短縮に、大いに貢献できました。
虎姫高での戦績は決して弱くはなかった気がしますが、ベスト8が最高の成績でした。ただ、3年目の1981年の若山睦主将の学年の1年生大会は彦根球場で、8月14日に強敵比叡山高校に6-1で勝利して優勝、このチームなら3年生のときは夏優勝して、“甲子園出場の夢”は叶えられるぞ!!との思いを強くしてくれました。されど、ダークホース日野高に初戦で、8-5で敗退してしまいました。春季大会は八幡商に1回戦で敗退しましたが、夏の選手権大会までは練習試合は1回のみの敗戦で絶好調でしたが、野球の公式戦の初戦の怖さをつくづく感じた試合でした。
もう一つ特筆すべきことは、6年目の1984年、田辺資博主将の夏のベンチ入り選手について、随分、苦慮したことです。3年生部員が19名いました。ベンチ入りは18名とスコアラー1名です。2年生部員の中には3人ほど、18名の中に入れる選手はいました。
3年生部員全員に夏の大会に臨む覚悟をノートに書いて持参する様に伝えました。2年生の新チームのこと、3年生の阪東君(中学時代、軟式テニス県No.1)のことなど熟慮の末、3年生ベンチ入り18名、スコアラー1名は全て3年生で、本年度の夏の大会は挑戦する旨をチーム全員に伝えました。その大会の敗戦の日に、阪東君は毎朝6時に起き、弁当を作ってくれた母親に“ありがとう”と言うつもりです。後日談、母親は『その言葉を聞いて、3年間の苦労が一気に消えました』(朝日新聞の記事より)なんという美談だろうと、涙が出そうになりました。

虎姫高校指導者時代の『西岡イズム』の詰まった西岡ノート13年分(1979(S54)年~1991(H3)年迄)

「球跡‘84」より(抜粋)
虎姫・阪東実選手
背番号16。棚姫の三年生阪東実君(17)は、二十一日の対八幡戦に自分の出番がなかった。攻撃のときも、守備のときも、ベンチで声をからした。「ボクは守備が下手やさかい」という。最後の夏、正選手にはなれなかった。この大会でベンチ入りする十八人には二年生が四人含まれるはずだった。そして三年生四人が応援席へ。「ベンチ入りできなくても自分がプレーしているつもりで応援したい」「野球をやってよかった」という三年生の作文を読んだ西岡義夫監督(48)の気が変わった。三年生全員のベンチ入りを決断したのである。戦力は二の次だった。
阪東君は中学時代は軟式テニスの選手。県大会優勝の記録がある。それが「チームプレーをしてみたくて」そして「甲子園にあこがれて」野球部に入った。
だが、野球部には、中学校時代の主将や正選手が「うじゃうじゃいた」と一年の春を振り返る。
彼は一試合を、通して出場したことはない。代打か、途中まで。初安打は昨秋。この六月、とたんに打てなくなった。背番号は半ばあきらめていた。
小学校ではバスケットの上手な子で、中学校ではスター選手だった。「ボクは控えの選手の気持ちがわかっていませんでした。虎高野球でそれがわかりました」。耐えながら明るさを失わない人が、いま立派にみえてきた。自分を支えてくれる人がたくさんいることもわかった。「野球をしていなかったら、自分はどうなっていたかわからん・・・」
大会が終わったら、朝六時に起きて弁当をつくってくれたお母さんに「ありがとう」をいうつもりだ。

「球児」の舞台裏:昭和59年7月18日付 朝日新聞(抜粋)
一年生で正選手というのは新設校以外ではまれである。が、二年生になれば、各チームに一人か二人、現れてくる。背番号10以上を含めると、ベンチの中に二年生が居にチームはまず、ない。
今度の大会で、おそらく唯一の例外となるのが、虎姫高野球部。登録選手十八人と、スコアラー一人の十九人全員が三年生。同校の歴史の中で初めてという。が、ほんの半月前までの段階では、十八人中に二年生四人が加わるはずだった。
「レポート書け」
滋賀大会の組み合わせ抽選を控えて七月一日、虎姫は福井県鯖江高へ遠征、鯖江高、鯖江工高と練習試合をした。二年生だけは翌日から臨床試験が始まるため、三年生全員と一年生二人で臨んだ。結果は、2-0、3-1と連勝。鯖江からの帰路、西岡義夫監督(47)は三年生たちにレポートを書くよう命じた。「野球を続けてきて何を得たのか。大会にどんな意気込みで臨むのか。おまえたちにとって野球とは何だったのか。心底、思っていることを書いて来い」
虎姫の三年生部員は、いつもの年なら十人前後。去年はわずかに四人だった。三年生全員をベンチ入りさせたうえ、新チームの中核となる一、二年生を加えてきた。ところが今年の三年生は十九人と、かつてない大所帯。伊香高から虎姫に来て六年目の西岡監督は、初めて、三年生のベンチ入り人選で悩んだ。
昨年の新チーム結成以来、虎姫チームには二年生四人が加わってきた。今春の県大会やふだんの練習試合でも常に参加していた。その分、三年生数人が「背番号」の外にいた。今度の大会でも、その態勢は変わらないだろう。当の二年生、三年生を含めて、だえもがそう思っていた。
読むうちに涙が
「いまの時点で純粋に戦力のことを考えれば、答えは明らかだ。が、最後の夏に、あいつらもかけているはず」。そう考えて書かせたレポートは、翌二日に西岡監督のもとに届いた。三人分まで読み進んだところで涙が止まらなくなった。残りのレポートを、見るのも怖い気持ちになった。
「出番は全くないかもしれない。そして、ベンチ入りもできないかもしれない。だが、女試合でも自分がやっているんだと思ってチームメートのプレーを見守り、応援する」
「最後の目標として、もし大会で自分が活躍できなくて、他の選手が活躍したとき、本当に心から拍手を送りたい。それができれば、この三年間は大きな意味があったと思う」
大会直前に合宿
「(ベンチ入りから)外そうと思っていた選手たちが、苦しい演習の中から、こんなにすばらしい心を身につけてくれた」。監督は大きな手ごたえを感じた。一部の新聞には既に二年生がメンバーとして書かれていたが、「まだ来年がある。君たちには申し訳ないが、最後の夏に、同期の仲間が一つになって燃えた思い出をつくらせてやりたいんだ」と伝えた。
虎姫は、去年やらなかった大会直前の合宿を十四―十七日に行った。十九人にかつてない気迫が漂った。西岡監督は、スクラムの爆発を期待している。

・虎姫高校野球部監督時代成績

最高成績:滋賀県ベスト⑧ 11回
1991年度秋の大会をもって虎姫高校の監督を退任。

虎姫高校監督成績 1979年~1991年(13年間)

たくさんの教え子に囲まれて。(2013年 西岡義夫監督77歳)
恩師の夢実現。虎高ナインと甲子園。虎高野球部甲子園プロジェクトより。校歌斉唱。校旗掲揚。

③滋賀県立長浜商工高校監督時代 1992(H4)年~1996(H8)年
教員生活最後の5年間は、長浜商工に奉職することになりました。虎姫高校時代の終わり頃、中沢校長から高野連の理事長とか教頭の話も聞かされましたが、生涯一監督という都合の良い言葉で逃げてきたのかもしれません。
長浜商工には、吉田隆義先生という野球に熱心な監督がおられましたので、私がその地位を奪ってもよいものか、躊躇していました。けれども、体育の教師が体育系の部活を指導しなければ何の為の体育教師かという思いと、人生野球一筋との信念を貫き通さねばという思いも強くありました。しかし、3年生選手の繋がりの関係で、春の大会終了までは吉田先監督にお任せしました。

4/26 春の大会 初戦 4-3で日野高に勝利
4/29 二回戦 0-4で大津高に敗退

そして、4月30日から60歳の定年までの5年間の監督人生のスタートを切りました。
吉田前監督も西岡監督にバトンタッチする旨、円満に引継ぎは終わりました。選手たちの中には2~3人、スポーツ刈りの長髪の者もいましたが、自分自身がその意気込みを示すためにも、翌日から短髪で登校しました。
夏の大会前にはBBCが“名監督復活”の特集番組を放送してくれました。 しかし、夏の大会は初戦で河瀬高に1-0で敗退、無念の涙を呑みました。大会前から『3年生の頑張りがあれば、必ず勝てる!』と話していましたが・・・。結果的には、安藤主将が面目を保つ働きをしましたが、練習試合の八幡商戦でホームランを打っていた国友君と高田君が打てませんでした。投手の斉藤君は力投で、1点に抑えてくれました。その1点もエラー絡みの失点で、自責点は0でした。ともかく、監督1年目の3年生の夏は終わりました。
[長浜商工に就任して半年間の回想録より](1992年7月25日記す)

恩師の夢実現。虎高ナインと甲子園。虎高野球部甲子園プロジェクトより。校歌斉唱。校旗掲揚。

・長浜商工高校野球部監督時代成績

最高成績:滋賀県ベスト⑧ 1回

長浜商工高校監督成績 1992年~1996年(5年間)

長浜商工高校野球部OBの数々の思い出。

第1回長浜商工高校野球部OB会 西岡義夫先生を囲む会開催(2024/7/13)

④滋賀県立長浜北高校監督時代 2000(H12)年8月~2003(H15)年7月

長浜北高校指導者時代の『西岡イズム』の詰まった西岡ノート4年分
(2000(H12)年~2003(H15)年迄)

長浜北高校 学校新聞(抜粋)
『一年間を振り返って』
平成9年に、38年間の教職生活を終えたのですが、本年4月から一年間、体育科の臨時講師として本校にお世話になることになりました。そして野球部の監督としての任務も受け、在職中の33年間の高校野球の監督の延長線のような、スリルのある、楽しい一年間だったと思っています。
講師とはいえ、本校の一教員として、保健・体育の授業はもちろん、公務分掌では、生活指導、二学年の副担任などお引き受け致しましたが充分な働きもできず、他の先生方にご迷惑をおかけしたのじゃないのかと、一年間を振り返って感じています。
野球部に関しては、30名の部員全員が一丸となって毎日練習に励み、殊に3年生部員の頑張りもあって、春季大会には決勝戦まで勝ち残り、近江に10-6で惜敗しました。夏の大会でも準優勝戦まで進み、甲子園まであと一歩という夢も目前まで迫ったのですが、八幡商に6-1でこれまた惜敗し、悔しい思いをしました。けれども、春、夏の大会を通じて、多くの生徒諸君の熱心な応援を受け、先生方や関係者の方々からも温かい声援を送っていただき、部員達の喜びも非常に大きかったのですが、私自身の野球人生に、また素晴らしい一ページを付けたすことできました。
若い頃(伊香高校勤務時代)は、鬼監督と言われたり、虎姫高校時代はボスと言われたりしていましたが、晩年の長浜商工時代は、すっかり温和になっていた感はありますが、監督である限り、『若さと情熱』は持続できたと思っています。還暦を過ぎた本年においても、こと高校野球となると夢中になって取りくめたことは、自分自身にとっても尊い経験ができたと喜んでいます。
体育の授業や部活その他で、若さと熱気で一杯の生徒諸君と接することができた本当に有意義な一年でした。何歳になっても、何かをついきゅうしつつ、元気な生涯を送りたいと思っています。
蛇足ですが、次の記録を記しておきます。
最後にありきたりの言葉ですが、この一年間に出会えた先生方や生徒諸君のご健康とご多幸をお祈りしています。

平成12年7月12日付 朝日新聞(抜粋)
「17年ぶりの決勝進出!」
長浜北の学校新聞は野球部の活躍を大きく紹介した。春季近畿地区高校野球県大会で同校野球部は、6試合で67得点と打線が爆発し、決勝で近江に惜しくも敗れたものの、予想を上回る快進撃を見せた。
昨年8月中旬から野球部監督に就任した西岡義夫監督が、発した一言がチームの雰囲気を一変した。
「野球は楽しいという気持ちが一番大事。その上で、努力を重ねればいい」
「野球は打って楽しむ球技」
をモットーに、練習の中心は打撃に。少々の失策は気にしない。失点したら取り返せばいい。
監督歴30年以上の西岡監督の独特の理論に初めは面食らったが、伸び伸びと楽しく野球ができるようになっていった。ただ単純に野球が好きだった小学生の頃の気持ちが少しずつ戻ってきた。勝つこと以上に「野球を楽しむ」ことがチームの、そして武田君自身の目標になった。「将来、指導者として、高校野球を教えてみたい」。これから野球にどう付き合っていくのか。『もう一つの夢』はこの夏が終わったら、具体的に見えてくるかもしれない。

・長浜北高校野球部監督時代成績

最高成績:滋賀県準優勝1回 ベスト④2回 ベスト⑧2回

長浜北高校監督成績 2000年~2003年(4年間)

※2001年(H13)滋賀県大会(夏)は、ベスト8であったが、2回戦で八幡商業最強のチーム(西川投手・前年夏の甲子園で完封勝ち)、エース西川をノックアウトして8 - 3で勝利。林勝監督の定年退職による最後の夏だった。

⑤彦根総合高校監督時代 2009(H21)年~2014(H26)年
2009年4月1日、彦根総合高校野球部の監督に就任。72歳でした。
野球部の誕生に関しては、当時、松本理事長、前年度までの林校長、4月から清田新校長、野球部同好会時代の西村顧問、今西先生など多くの方々のご尽力のお陰で、部が誕生しました。豊富な経験のある西岡監督の就任ということも、大きな要因ではあったかもしれません。
(以下、中日新聞の掲載記事 参照)

平成21年4月10日付 中日新聞)(抜粋)
硬式野球部初陣へ ~ 彦根総合高、あす公式戦
ことし三月に創部したばかりの私立彦根総合高校(彦根市)硬式野球部が、十一日に開幕する春季近畿地区高校野球県大会に向けて練習に励んでいる。部員数は十二人。うち二人は野球の未経験者だが、主将の出口雄大投手は「全力でプレーして、試合を楽しみたい」と意気込んでいる。
前身の軟式野球同好会は二〇〇七年六月に発足し、これまでティーバッティングや内野の守備練習などを重ねてきた。ことし四月から、県立伊香高校(木之本町)を三度甲子園に導いた名将・西岡義夫さん(72)=湖北町=を監督に迎え、本格的に指導した。
入学式が行われた九日、真新しいユニフォームが用意され早速、袖を通した球児たちはグランドへ。狭い上、線路や民家に囲まれ十分なバッティングや試合形式の練習ができない中、バント練習などに汗を流した。
県大会の初戦の相手は堅田高校(大津市)。十一日に高島市の今津スタジアムで対戦する。西岡監督は「伝統校が相手だが、まずは自分たちの力を発揮して一生懸命戦ってほしい」と話した。

彦根総合高校野球部 最初のミーティング (平成21年4月吉日)
部長、監督、コーチetc.は、君達のアドバイザーだよ。最も大切なことは、選手自身がしっかり目標を決めて、継続して努力を積み重ねていくことが価値あることであり、勝利への近道だと思う。
これから始めるオリエンテーションも、君達自身が一つでも二つでも、頭に残して実行していってほしいと思っています。
NHKのドラマ『フルスイング』で気力と言う言葉がありましたが、部員一人ひとりが信念を持って粘り強く合同練習や個人練習、家庭練習に取り組んで努力すれば、一勝!二勝!→優勝→“甲子園という夢”に繋がっていくのではないだろうか。

平成21年度(22年度、23年度)彦根総合高校野球部Orientation
監督から部員諸君に望みたいこと

1.いかなる場においても、立派な人間としての礼儀(Manners)を身につけること
2.何事にも全力で立ち向かう闘志(Fight)を培うこと。
3.どんな辛いこと、苦しいことにも耐えぬく忍耐(Patience)を養うこと。

以上、3つのことをmottoとして毎日の高校生活を過ごしてほしい。
礼儀・闘志・忍耐は一生涯必要なことだから。

高校生活では、勉強(知育)は欠かすことのできない大切なものですが、心(徳育)やからだ(体育)の鍛錬も重要です。
3年間、野球部での活動をやりとげて心・技・体を磨いて、自己の目指す進路へはばたいて行ってほしいと思っています。

≪具体的な10条≫
①自己紹介=何でもないようだが、これでその人の評価がされる。1st impressionが大切
②野球ノートを書こう=後々に役に立つ。ミーティングの内容、アドバイスなど
③good player≒立派な人間→挨拶ができる人・時間を守れる人・掃除ができる人
④裏表のない人、真心のある人間になろう。信頼を得るのは長いが、失うのは一瞬
⑤尊敬される上級生になろう。好感を持たれる下級生になろう
(例、節度を守る・明朗である・誠実である・親切である・純情である など)
⑥野球に対する情熱=勉強に対する情熱→意欲(やる気)は向上の根源なり
⑦若い人(一般人でも)→楽をしたい、格好よくしたいではダメ(若い時の苦労は買ってでもせよ!)
⑧家族の人たちへの感謝の気持ちを忘れずに。今日まで育ててもらった、野球ができる喜びを…
⑨彦根総合高校の野球部員としての誇り(pride)を持とう。よき伝統は自らが創るもの
⑩夢を持とう。夢の実現のために小さなことからコツコツ実行していこう。

平成26年10月27日付 朝日新聞(抜粋)
43年説き続けた「謙虚」 県内の計5校で43年間務めてきた高校野球の監督を、9月で引退した。「この年までノックを打てる体に育ててくれた両親に感謝したい」
1964年、赴任した伊香で監督に就任。15年間で3度甲子園に導いた。初出場を決めた68年夏、旧木之本町にヘリコプターが来て新聞の号外を巻き、地元の人が優勝を喜ぶ姿を目の当たりにした。「高校野球は地元の人を元気にできる。やりがいのあるものだと感じた」
その後姫虎、長浜商工(現・長浜北星)、長浜北で指導、野球部が親切された彦根総合に請われ、2009年4月から再びユニフォームを着た。
長年掲げた「礼儀、闘志、忍耐」を、時代に合わせて「仲良く、楽しく、励まし合う」に変えて選手と接したが、他の部に比べ注目されている分、選手に「常に謙虚でいるように」と説き続けてきた。
今後の楽しみは教え子との再会だ。「厳しいことを言ってきたけど、多くの子が会いに来てくれる」。教え子たちが毎年年末に開いてくれる集まりを心待ちにしている。

平成26年10月27日付 朝日新聞(抜粋)
生涯一監督に幕
野球を始めたのは小学校低学年の時。野球好きの友人たちと布製グラブでキャッチボールをしたり、綿に布を巻き、糸で縫ったボールを竹バットで打ったりしたのがきっかけだ。中学校では迷わず野球部へ。高校は同好会しかなく半年で廃部になり、テニス部に転向。大学で再び準硬式野球部の門をたたいた。
卒業後教員となり、初めて野球部監督を務めた母校の中学校での熱心な指導が、運動部強化を掲げていた当時の伊香高校長の目に留まり、野球部監督の声が掛かった。十五年務めた同校監督時代には、春夏合わせて三度、甲子園に出場した。
「人と同じことをするのが嫌い。まねするより独創性が大事」というように、セオリーとは正反対に打者に高めの球を放つ戦略や、安打がなくても得点する作戦などえお実践した。一九七七(昭和五十二)年の春の甲子園出場時は、一~九の数字が書かれた板でサインを出す「乱数表」をベンチに立てて戦った。
同校を最初に、長浜商工(現・長浜北星)高校で一九九七年に定年を迎えるまで一貫して野球部監督を務めた。彦根総合高校から声が掛かったのは、しばらく野球を離れていた二〇〇八年秋、伊香高の野球部員だった当時の教頭に会いに学校ね偶然立ち寄った時、同席した校長(当時)ともども「監督で来てくれるなら野球部を立ち上げる」と説得され、その場で快諾した。
当時の彦根総合高校には部員四、五人の同好会しかなかったが、引き受けたのは「新鮮な環境で野球ができるのが嬉しかったから」。翌年四月には部員十一人の野球部ができ、監督に就任、初年度は公式、練習試合を含めて三十試合戦い、二十九敗一分け。

彦根総合高校指導者時代の『西岡イズム』の
詰まった西岡ノート6年分
(2009(H21)年~2014(H26)年迄)

一生もできなかったが、久しぶりにグランドで子どもたちと野球ができる喜びをかみしめた。
翌年以降は、中学での野球経験者も多く入部してきて、少しずつ勝利を手にできるように。だが、今年九月の初め、「昔のような粘りと根気強さがなくなってきた」と、学校側に引退を申し出た。
現場から退いた今、生涯一監督を貫いた人生を振り返り、「野球のおかげでここまで元気に楽しく生きてこられた。とても幸せな野球人生だった。

・彦根総合高校野球部監督時代成績

最高成績:滋賀県ベスト16
西岡義夫監督、72歳で彦根総合高校野球部初代監督として0からチームを作る。

彦根総合高校監督成績 2009年~2014年(6年間)

学野球指導者時代

①花園大学野球部監督時代 2016(H28)年~2018(H30)年
冒頭の挨拶で川戸康嗣氏のことを述べましたが、その川戸さんとの関係を少し詳細に話しますと、私が彦根総合高校の監督の時に卒業生の就職の関係で出会い、有望選手はいますか、という話から始まり、いろいろな人間関係などに発展していった様な気がします。
その川戸さんが、奇しくも私が79歳のときに、再び花園大学の野球部の監督のお話を持ちかけられました。「まあ一度、花園大まで送りますので、大学の話を聞いて下さいよ!」という事になりました。
2016年3月下旬、花園大学の一室で事務局長、学生課長、最後に学長様方と様々な話し合いの中で、私の様な『老木』(人生一生、青春と思っていますが)に、“野球部の監督をお願いしたい”と要請を受け、有難くお受けすることになったという経緯です。そこから、花園大学の野球部の監督生活が始まりました。
野球部全員のミーティングで最初に話した言葉は、

「両親や家族の下で、大学生の現在まで育てられてきた。
一生懸命、学習や野球に日々、努力し、切磋琢磨して
立派な社会人となって、大学を卒業して欲しい。」

と、野球部監督としてのお願いをしました。
日々の部活動は矢野主将、小林主務、長谷川コーチ、女子マネージャーを中心に、一致団結して努力し、大江投手の力投もあり、全員一丸となって、一人ひとりが役割を果たし、初戦の京都学園大との不思議な引き分けを含み、勝ち点を得られ、その勢いに乗って春季リーグ戦で優勝し、老監督を神宮球場に連れて行ってくれたことは自分自身、『何とラッキーな男だ』と、嬉しさで一杯でした。

大学指導者時代の『西岡イズム』の詰まった西岡ノート(2016年~2018年迄)の3年分

花園大学硬式野球部(西岡義夫監督)

2016年春 優勝 神宮出場
2016年秋 4位

2017年春 3位
2017年秋 5位

2018年春 2位
2018年秋 4位

当時の西岡監督の指導を振り返って
(矢野キャプテンのコメントより)

監督とキャプテンという立場でお会いして、直ぐにチームを理解し、適切なアドバイスをされたことが印象的で、驚きと共に、「この監督となら強くなれる」との確信を得ました。野球に熱い選手たちばかりでしたので、「きっかけさえあれば優勝できる」と思っていた中での出会いでした。各選手の自主性に任せ、選手を信じ切り、実力を発揮させるという指導方針の下、のびのびとした野球を通して、自然に「全員で勝ちにいく」という強い連帯感が生まれました。その結果、いきなり最初の春季リーグで優勝を果たし、野球部創設以来、念願の大学野球選手権(神宮大会)出場を果たすことができました。
現在、私は野球部OBとして、花園大学野球部のコーチを務めています。野球が大好きで野球部に入っている選手たちも、自分たちが経験してきたように「自主性・独創性」を重んじる野球を通して楽しみながら成長し、勝利を積み重ねる経験を味わって欲しいと思っています。
私自身の人生をこのように変えて頂いた西岡先生には、感謝以外の言葉は見つかりません。本当に、ありがとうございました。

2024年5月11日 彦根球場にて矢野さんと西岡義夫先生

学野球指導者を退任以降

82歳で、3年間務めた花園大学野球部監督を退任した後、以前より大好きであったゴルフを中心とした生活を楽しんでいます。現在(2024年時点)は、ゴルフを通して交流を深め、健康増進のためにも月に5~6回程度、コースを回っています。
また、≪京滋6大学準硬式野球連盟≫の会長も務めさせて頂いており(2024年現在)、春と秋のリーグ戦を数試合観戦し、リーグ戦終了後は連盟会長として「優秀選手」の選考と表彰をさせて頂いています。
現在は、大好きなBGM(ベースボール、ゴルフ、マージャン)を楽しみながら、充実した余生を送らせて頂いています。

野球部指導者としての主な成績

  • 伊香高等学校 野球部監督として、甲子園出場3回(1968年夏、1973年夏、1977年春)
  • 第86回全国高等学校野球選手権大会「Year of the Coach」表彰(2004年7月)
    日本高等学校野球連盟・朝日新聞社
  • 花園大学 硬式野球部監督として、「第65回大学選手権」出場(2016年6月)

『西岡義夫監督』の
指導者としての活動指針とは
どのようなものだったのか。

ベンチに入るメンバーだけではなく、入部した部員全員が、3年間の部活動を通して成長し、全員が「入部して良かった」と思える様に導くことを第一に心掛けました。部活動はあくまで教育の一環であり、部員全員が「入部して良かった」と思えるチームを作ることが、教育者としての役割であると考えていたからです。これは、大学時代の恩師から教わった考え方で、「1人のオリンピック選手をつくるために、他の選手を犠牲にしてはならない」との方針が、自らの教育方針となりました。1人では立派にはなれない、できるだけ仲間同士がお互いに良い所を学び合い、成長できる環境作りを心掛けました。

また、人が社会で生活する上で、[①礼儀、②闘志、③忍耐]が最も大切であると、私は考えています。毎年4月の新入生オリエンテーションの時には、この点を特に強調して教えていました。教育者として、野球を通じてその重要性を伝え、その上で勝たせる指導を行う様に考えました。勝利至上主義による、1人1人の選手に手取り足取り指導し、野球の技術を向上させていくのではなく、教育者として、選手の人間力育成のために自主性を育て、更に、野球の楽しさを伝えていくことに全力を注ぎました。その結果、選手と共に野球大好き人間が集まり、各選手が自主的に自分の力を発揮することで、個性を磨きながら勝利を目指すという理想を求めた環境作りに力を入れました。また私自身、「試合に勝てば、選手のお陰」という感謝の気持ちを忘れない様に心掛けました。

『西岡流マネジメント論』・
『西岡イズム』とは。

人間が<万物の霊長>といわれるのは、先代まで積み上げられた財産を引き継ぐ形で、次世代の人間がそれらを受け継ぎ、発展させていくことができる唯一の動物だからであると伺ったことがあります。人間以外の動物は、親子間でも引き継いでいくものがないため、生まれてもゼロからスタートするしかありません。
野球は150年以上の歴史がり、優れた人・選手の行動や言葉を学び、手本として真似ていくことで、上手くなっていき、成長していく。そんな部員を何人も見てきました。意識的に「この選手を手本とするように」とは指導せず、部員の可能性を決め付ける様なことはしませんでした。<全員に光を当てる>という指導方針のもと、周りからも「西岡監督の時は、スコアブックが真っ黒になる」と言われるほど、重要な試合以外はできるだけ多くの選手に機会を与え、実戦経験を積ませてきました。一瞬一瞬を大切に、全員練習・全体練習を積み重ね、選手たちが試合を通じて切磋琢磨していく過程の中で、自然と他人の良い所は学び、お互いを支え合い、励まし合う様になることでチーム力の向上を目指し、組織力の強化を目指しました。
特に『西岡流マネジメント論』・『西岡イズム』という様なおこがましい気持ちはありません。私の指導を受けた卒業生の経験談や意見こそが、その教えではなかったかと考えており、その答えを私の「YouTubeチャンネル」の座談会と共に、酒を酌み交わしながら、OBを中心とした関係者たちと振り返っていきたいです。今はそれを聞かせて頂くことが、現在の楽しみの一つです。

西岡義夫が
仲間たち(OB・関係者)と語る
数々の思い出について。

回顧談義・思い出の試合・その他いろいろ

名将『西岡義夫』記念館

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闘病生活を乗り越えて。

彦根総合高校の野球部監督に就任する直前、71歳の時、ゴルフでプレーしている最中に息苦しさを感じ、病院で検査を受けたところ、冠動脈が詰まっていると診断されました。滋賀県立医科大学に約10日間入院して、バイパス手術を受け、2ヵ月後には完治しました。
その2年後となる73歳の時、今度は前立腺にガンが見つかりました。同じく滋賀県立医科大学で、2泊3日の最新治療を受け、再発なく現在に至っています。
最近では84歳の時(2020年)、腕に「帯状疱疹」が現れ、その影響で大好きなゴルフが約2ヶ月間できないこともありました。
現在は健康面に問題はなく、健康の有り難味に感謝させて頂きながら、毎日を過ごしています。

これからの人生における
夢・目標・ビジョンについて

「我が野球一筋の人生において、悔いなし」との思いは強いが、その評価は皆様にお任せしたいです。
野球に関する仕事として、現在、≪京滋6大学準硬式野球連盟≫の会長を務めさせて頂いています。これからも、少年野球から大学野球まで、滋賀県の野球界の発展のために尽力していきたいです。
また、お付き合いから始めたゴルフも大好きで、日曜日放送の「ゴルフ交遊抄」(田村プロ司会)[BS7]、『人生での価値はどれほど財産を得たかではない。何人のゴルフ仲間を得たかである』(ボビー・ジョーンズ)の格言を、ゴルフ談義の時によく話しています。

ゴルフにおける主な記録と記憶について

西岡義夫と仲間たち!!(大好きなゴルフ編)『西岡義夫とゴルフ談義①』 滋賀県長浜市 365ゴルフクラブ長浜にて(2024/6/27)

西岡義夫Youtubeチャンネル
わが人生。仲間が主役。仲間が宝。最新動画はコチラ

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我が監督人生と教育者の端くれ人生の
思い出を中心とした回顧録。
(西岡語録)

1968年の第50回全国高校野球選手権大会、滋賀大会の決勝戦で伊香高校が長浜北を10-0で破り、甲子園初出場を果たした際、朝日新聞のヘリコプターから『山寒地から初出場の快挙』を報じる号外が、伊香高校グランドに投下された。正に、昭和43年7月31日。これが私、西岡義夫氏の『“野球人生”のドキュメンタリードラマ』の始まりであります。奇しくも7月31日は、今日まで野球一途の我まま人生で苦労を掛け続けてきた妻・淳子の今や84歳になるハッピーバースデーだったことも、不思議な縁で結ばれた幸運な女神だったのでしょうか!

長浜北高 武田丈二主将(平成12年7月12日の朝日新聞『もうひとつの夢』より抜粋)
武田君は小学校4年から野球を始めた。『この頃が、野球をやっていて一番楽しかった時期』と話す。キャッチボール、バッティングに試合。すべてが新鮮で、何も考えずにただ野球を楽しんでいた。しかし、中学、高校と野球を続けていくうちに「勝つこと」を求められるようになった。
昨年8月、野球部は自主練習を黙々とこなす毎日が続いた。
そんな部の雰囲気が一変したのは9月に就任した西岡義夫監督(63)が発した一言だった。『野球は楽しいと言う気持ちが一番大事。その上で努力を重ねればいい。』『野球は打って楽しむ球技』をモットーに、練習の中心は打撃に。少々の失策は気にしない、点を失ったら取り返せばいい。ただ、単純に野球が好きだった小学生の頃の気持ちが、少しずつ戻ってきた。勝つこと以上に「野球を楽しむ」ことが、チームの、そして武田君自身の目標になった。(武田君のこの記事を読んで嬉しくなりました)

長浜北は次年度も名将で盟友でもある林勝(幸輝)監督の定年退職の年の八商最強のチーム、エース西川君から初回3点、3回4点を取りノックアウトして、8–3で八幡商の初戦を打破したこと。新聞の選評も、長浜北はバットを短く持つ、ミート打法に徹し、甘い球をことごとく打ち返した。宮本投手も7回には一死満塁のピンチを粘り強く投げて、併殺で切り抜けた。3回戦は膳所高に1安打10四球で、5–4で勝利できたことも奇跡の様な公式戦だったが、私としては、これぞ高校野球だと思える好ゲームだった。

高校野球の監督(伊香・15年、虎姫・13年、長浜商工・5年、長浜北・4年、彦根総合・6年)を43年と、花園代3年、それ以外に中学1年、湖北ボーイズ3年。全て合計すると50年の野球部の指導をやれた事に。88歳の今、思い返せば健康にも恵まれ、野球大好きの仲間たちとの出会いに感謝、感謝です。 野球に関して、勝てば嬉し涙、まければ悲しい涙を沢山流してきました。監督・指導者としての宿命かな?
人生の終焉まで「我が人生に悔いなし」と思いつつ、野球部OBたちやG仲間たちと交流を持ちながら、“残りの人生を大切に生き続けたい”と思っています。

下記は、長浜北の山本君の新聞の記事ですが、伊香高から彦根総合高まで一貫して打撃理論はこの記事の通りで僕の根本的な理屈はプロでもアマでも直球の空振りは8〜9割はボール⚾の下をバットが通過していますので無意識にスイングするとボールの下に当たる。目を閉じて水平に張ったロープをスイングすると8〜9割の人はロープにバットが触れてしまう。事実が、現れるレベルにスイングする事は大変難しいと言う証です。

株式会社スタープロジェクト代表の川戸康嗣と西岡義夫監督の対談の様子
西岡義夫監督とスタープロジェクト代表の川戸康嗣氏
「西岡義夫先生の50年にわたる監督生活引退記念パーティー」
(2018/10/27(土)『西岡義夫先生を祝う会』主催)

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【想い出の1ページ】
写真左の小島龍一君夏の大会に初球をホームランを打つのだぞ‼️ と言っておいたらファールの後の2球目をホームランを打った希有な男です。この年の夏の大会直前に虎姫高グランドの改修工事の為海老江の公民館で合宿近くの山本のグランドにて3̃〜4日合宿して夏の大会に突入しました。

西岡 義夫

Profile

西岡 義夫

誕生日:昭和11年11月1日 血液型:A型
大阪市東淀川区出身 滋賀県長浜市在住

昭和24年3月

長浜市立 朝日小学校 卒業

昭和27年3月

長浜市立 湖北中学校 卒業

昭和30年3月

滋賀県立 虎姫高等学校 卒業

昭和34年3月

国立 滋賀大学 学芸学部学校 卒業

経歴・活動実績

職歴
・浅井東小学校 教諭 [3年間]
・湖北中学校 教諭 [2年間]
・伊香高等学校 教諭 [15年間]
・虎姫高等学校 教諭 [13年間]
・長浜商工高等学校 教諭 [5年間]
・高月自動車教習所 顧問 [1年間]
・長浜北高等学校 教諭兼野球部監督 [4年間]
・大塚産業KK 顧問 [1年間]
・彦根総合高等学校 野球部監督 [6年間]
・花園大学 硬式野球部監督 [3年間]
・京滋6大学準硬式野球連盟会長 (2024年現在)

今までの指導者としての活動実績(経歴・指導歴)
・湖北中学校 野球部監督 [1年間]
・伊香高等学校 野球部監督 [15年間] (甲子園出場3回)
・虎姫高等学校 野球部監督 [13年間]
・長浜商工高等学校 野球部監督 [5年間]
・びわこ放送 高校野球解説 [2年間]
・長浜北高等学校 野球部監督 [4年間]
・全国高野連 功労賞受賞 (2004年7月)
・湖北ボーイズ 監督 [3年間]
・彦根総合高等学校 野球部監督 [6年間]
・花園大学 硬式野球部監督 [3年間] (第65回大学選手権出場)
・長浜市ゴルフ協会 副会長 [5年間]
・京滋6大学準硬式野球連盟 会長 (2024年現在)

資格・表彰等
・小学校教諭一級免許状
・中学校教諭一級免許状 (保健体育・英語)
・高等学校教諭二級免許状 (保健体育・英語)

趣味

・ゴルフ
・スキー [準指導員]
・麻雀

お気に入りのアイテム

キャッチャー・ノックの写真

キャッチャー・ノックの写真
(虎姫高校OBが甲子園球場を1日借りて、紅白戦をした時の写真)

座右の銘

『誠実』

各種メディア出演・
その他(新聞雑誌掲載など)

その他

●高校野球選手名鑑

西岡 義夫 – 高校野球選手名鑑

●WEB同窓会

tsuushin93.pdf

●とば義明オフィシャルサイト

関西の首領逝く | とば義明オフィシャルサイト

その他、新聞、雑誌多数掲載 (2024/4/14時点)

西岡義夫へのアクセス・お問い合わせについて

〒592-0012 大阪府高石市綾園7-3-35 櫛谷ビル2F 【株式会社スタープロジェクト】
TEL.072-263-5474 FAX.072-264-4403

パートナー企業・協力団体リンク

キャッチャー・ノックの写真